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晚來天遇雪

自宅で生活するには


しかしながら、突然、エンドが来るのなら、よいが、そうはいかない。

自立しているか、あるいは、同居の家族やヘルパーさんに、介護してもらって生活できるか、である。
自立していなければ、一人では生活できない。
誰かの手を必要とする。
人の手が足りない場合は、人の手をおカネで買うこともある。
経済的にも人間関係的にも厳しい状況の場合は、家族が呑み込まれる、悲惨な事件になっていることもある。
政府は、いくら税金を投入して施設をたくさん作っても、働く人が充実していなければ、中身はスカスカだ。

核家族の終焉は、おひとりさま死。
核家族なのに、家族に囲まれて最期を迎えるなんて、虫が良い。
自分が高齢になった頃は、子供や孫は、とっくに独立して、別居している。

三世代同居住宅とか、ハウスメーカーは、いろいろ提案しているし、実際、住んでおられる方もたくさん知っている。
多世代同居住宅は、ぎりぎり自立できなくなる、その日まで、至近距離でスタンバイし、
べったり同居する期日を最大限、延ばしている効力がある。
しかし、自立できなくなると、家族が、福祉サービスを利用しながら世話をすることになる。
亡くなるまでの長い間の年月、あるいは、老人施設、または病院に入るまでの長い日々を、在宅介護に費やした人々もたくさんいる。
介護保険が機能し普及する、ほんの少し前までは、家族だけでの在宅介護が当たり前だった。
老人施設に親を入れようものなら、親を捨てる気か、と非難ごうごうだった。

おひとりさま、ということは、自分で自分を介護しなければいけない。
自立できなくなると、老人施設に入るという選択しかないのか。
もともとおひとりさまなんだから、家族がいないのに、家族に見守られながら・・・という最期は条件外、想定外。
先にも述べたが、人と、どういう関わり合いをしていたか、だ。

その寂しい末路が嫌で、非社交家で内向的な人が、無理やり、いろんな人と接するというのは、本末転倒かも知れない。
葬式を盛大にしたいために、多くの人と派手に付き合う、みたいなかんじか。
原因、プロセスがあって、結果がある。
逆に、達成目標を先に掲げ、それに向って、プロセスを組み立てるという方法もあるが。

苦手なこと(社交)を克服する努力よりも、自然体で行って、自然に侘しく淋しく消滅しすればそれでいい、と、わたし自身のことに関しては、自分では思う。

ある程度の年齢になれば、引きこもり生活を送ろうと、わたしは考えている。
社交は、ほとんどゼロ。
ご隠居さんなのに、人を寄せ付けず、縁側でお茶をすする相手がいない。
なので、死ぬ時は、きっと生きている時の延長のようなかんじだろう。
ある意味、それは理想かも。
ただ、ある程度の年齢、時期というものが、見えない。
近づいてきたら、徐々に見えてくることだろう。(と、いたって、楽観的)

いつまでも、引っ込まないので、家族に無理やり閉じ込められるかも知れない。
それはそれで、元気が有り余っていて良いかも。
要は、なんでもいいのだ。
なるように、なるってこと。なるようにしか、ならない、ってことだ。

 

あああ、おそろしく長々しい、本日のブログ。
なんで、こんなに長いのか。
これっぽっちも、読む人の身になって書いていないのが、アリアリ。
にっほん紀行のところで終わっていれば、有終の美だったかも知れないのに。
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