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晚來天遇雪

一般的に使われるのは①の意味で

学校を卒業することに譬えて比喩的に②の意味でも使われることが多い。
 大辞林の②には、「もうマンガ本は卒業した」の例が挙げられている。
 番組を卒業した、会社を卒業した、子供を卒業した、AKBを卒業した、女を卒業した、人生を卒業した、人間を卒業した・・・

 しかし、よく考えてみれば、「学校を卒業する」という言葉が使われるようになるのは、学制が敷かれた明治以降である。
 それ以前、卒業という言葉はなかったのか?

 ちなみに中国語では卒業は、畢業である。簡体字では、毕业。
 畢は漢音でヒツ。
 鳥獣を捕まえる柄付き網を描いた象形文字で、隙間なく抑えることから、もれなく押えてケリをつけるという意味になった。
 訓読みでは、あみ、おわる等。

 私はほとんどこの字にお目にかかったことはなく、畢生(ヒッセイ、生涯のこと)をどこかで目にしたことがあるくらい。
 業は、ギザギザの止め木のついた台を描いた象形文字で、凸凹してつかえる、すんなりとはいかず苦労する仕事の意味となったそうだ。
 そこから、畢業(ヒツギョウ)は、業を終える、卒業するの意。

 では、日本の卒業の卒はというと、「衣+十」の会意文字で、衣を着て十人ずつ一隊になった雑兵・小者のこと。小さくまとめて引き締めることから、締めくくる、終わりの意味を派生したという。 

 卒業は学制の始まった明治以前にも使われていて、日本国語大辞典には、天明3年(1783)の用例が載っている。
 『授業編』という儒学書と、『五者反古』という俳諧集の蕪村の序文で、
 ──かほどの編集かりそめに卒業あるべきに非ず
 ──明日を待て稿を脱せむ。維こま、終に卒業の期なきを悟て、竊(ひそか)に草稿を奪い去
とある。

 万延元年(1860)の蘭書の訳書『万国政表』や福沢諭吉の『西洋事情』の用例も載っているが、いずれも大辞林③「一つの事業を完了すること」の意味に使われている。

 大辞林①「学校の全教科または学科の課程を修了すること」の用例は、やはり明治になってからで、明治5年(1872)の文部省布達第13号別冊から引用されている。
 ──尋常小学校を分て上下二等とす。此二等は男女とも必ず卒業すべきものとす

 なお、中国に卒業の用例がなくはないようで、大辞林③の意味で荀子、仲尼(孔子)にあるらしい。

 ①~③のいずれにしても、めでたさのようなものは含意されていて、意に反して番組を降ろされた者には「卒業」の言葉はやはり相応しくなく、「卒業です」とにこやかに去る局アナに比べて、契約出演者の表情に蔭を見てしまうのは気のせいか?
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